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ままみが選ぶ心地良い70年代ポップス [音楽]

中学の頃リアルタイムでヒットしていて、思い出すと聴きたくなるサウンドをご紹介


Don’t Look Back(1978年)


ハードロックの中でもボストンの曲は聴きやすく、壮大で伸びやかなギターによって爽快な風が吹きぬけます。
スペーシーなサウンドなのに、シンセサイザーなしなんですって。
そして、宇宙船ボストン号のジャケットの数々がまた、カッコ良い!!
当時は衝撃が走りました。


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Barracuda (1977年)


バラクーダはオニカマスの事で、狙いを定め一直線に襲いかかってくるため、一部ではサメより怖いと恐れられています。
あなた、巨大魚バラクーダみたい、と力強くパワフルに歌っているのはハートのアン・ウイルソン。
ギターはナンシー・ウイルソン。
美人ロック姉妹の、硬派なカッコ良さにしびれました。





After The Love Has Gone(1979年)


アース・ウインド&ファイアーはどれも素晴らしいのですが、一番好きな曲はコレ!
アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン♪
好き過ぎて、聴いているうちに、脳内では美しく光り輝く宮殿まで見えてしまいます・笑



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                                              イメージ(ウィキより)




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MGM異色の歌手 バージニア・オブライエン [音楽]

バージニア・オブライエン Virginia O'brien (1919年4月18日 ~ 2001年1月16日)
1940年代のMGMで、主に喜劇の役割を演じたアメリカの歌手であり女優、またラジオのパーソナリティー。
不気味な無表情の歌唱スタイルによって、ミュージカル作品に多くに出演した、歌うコメディアンです。
魅力的なブルネットと美しい黒い瞳を持ちながら、まばたき一つせず、顔をほとんど動かさないスフィンクスの様な美女で、歌声もとってもクールです。

父親はロサンゼルス市警の刑事、叔父の一人はチャップリンの映画に数多く出演した映画監督のロイド・ベーコン、オブライエンはタップダンサーのエレノア・パウエルに魅了され、年若くしてダンスや歌に興味を持つようになりました。
ノースハリウッドの高校では、踊りと歌のレッスンに励み、最終的には歌手を志しますが、1940年の「Meet Tha people」という映画でデビューを果たします。

無名だった頃においては、あまりの緊張症、舞台恐怖症に苦しんだと言います。
緊張しながらも何とか頑張ってステージ上で歌っていましたが、その災難が逆に、MGMのトップ、ルイ・B・メイヤーの目に留まり、潜在的な持ち味を引き出されたのです。
ソロナンバーを歌う彼女のパフォーマンスは、大きく目を見開いて観客を凝視し、恐怖を与えると言ったもの。
それが喜劇定番として、聴衆を沸かせました。
スクリーンテスト後はMGMと7年の契約をし、コメディの道へ入り、ショービジネスのチャンスを掴んだのです。

彼女は、このパフォーマンスを繰り返したため、ミス無表情、ミス氷河など、様々なニックネームで呼ばれ、往年の映画ファンに知られましたが、彫像の様ないでたちで歌う姿はとても印象的です。
歌っていない時の演技スタイルは、もちろん他の女優と同じように感情表現していますが、意図的にユーモラスを図った歌唱スタイルが受けたのです。

主な出演作品の紹介ですが
「マルクス兄弟デパート騒動」1941 年
姑息な支配人に乗っ取られかかった名門デパートを助けるため、マルクス兄弟がドタバタを繰り広げる喜劇。
オブライエンは、揺り籠を無表情で揺する「ロッカバイ・ベイビー」を歌っています。

「レディ・ビー・グッド」1942年
憧れていた、エレノア・パウエルとの共演。
喜劇役者レッド・スケルトンの、食べているときだけ幸せである気の狂ったガールフレンドとして演技しました。

「万雷の歓呼」1943年
「姉妹と水兵」の、ジューン・アリスン、グロリア・デ・ヘブンの二人が甘く歌うと、対照的にとげとげしく歌うといったコラボレーションを披露。

「デュバリイは貴婦人」1943年
レッド・スケルトンが夢の中で18世紀のルイ16世になってしまう話で、トミー・ドーシーの演奏による楽しいミュージカル。
彫刻か、はたまたアンドロイドかと言った美しい顔立ちで、サロメを歌います。

「姉妹と水兵」1943年
廃墟の様なクラブを姉妹が力を合わせて盛り立て、ハリー・ジェームス、ホセ・イタービ、ザビア・クガートなど、大御所楽団の出演協力を迎えるのですが、その中の歌い手の一人として出演。
Take it easy~♪と気だるく歌っています。

「ジーグフェルド・フォーリーズ」1946年
白馬の上で、素敵なアメリカ男性との出会いを熱望するコミカルな女性。

「雲流るるはてに」1946年
ジェロームカーンの伝記映画。
最終の大シークエンスの中で、「ア・ファイン・ロマンス」をそっけなく歌っています。

「ハーヴェィ・ガールズ」1946年
ジュディ・ガーランド主演の、ジュディの魅力満載の作品ですが、「オズの魔法使い」でカカシ役を演じたレイ・ボルジャー扮する鍛冶屋の相手役として出演。

MGMの中でも印象深い、記憶に残るいくつものシーンに出演していて、小さな脇役ながらも称賛されていました。
分かる人が見れば分かるシュールなユーモア、ドライでクールな魅力、そして磨き抜かれた確かな歌声によって、トップの喜劇女優の一人として、観客のお気に入りとなったのです。

MGMではわずか7年の活躍でしたが、契約が終わった戦後になると、古いハリウッドのスタジオシステムも徐々に崩壊し始め、国民の嗜好も変化していきました。
彼女はMGMを離れ、全国のナイトクラブや小劇場、ラジオ放送局などに活躍の場を移してきます。
また、エドサリバン、スティーブ・アレンなどのTVバラエティなどにもゲスト出演していました。
1955年には再び、ドナルド•オコナーの「フランシス海軍」に出演。
そして出演した最後の作品は、ディズニー映画の「ガス」(1976年)でした。

私生活では1942年に、初代のスーパーマンを演じた、俳優カーク・アレンと結婚。
二人の娘と息子をもうけ、ハーヴェイ•ガールズでは実際には最初の子を妊娠しながらの出演でした。
その後1955年に離婚しますが、発明者ハリー•B•ホワイトと3度目の結婚をし、1996年、死が二人を分かつまで彼との結婚を続けました。
3人の娘、息子、7人の孫、2人のひ孫に恵まれ、81歳で安らかに永眠、カリフォルニア州グレンデール、フォレストローン記念公園に埋葬されています。


そしてホロスコープを見てみると、女性としての態度を表す金星がコメディエンヌとしての資質を持つ双子座で、天王星とはタイトに90度、土星もオーブを広く取れば90度。
天王星、土星、この2つが関わるとどうなるか、やはり態度はそっけなく無愛想、媚びやお世辞など言わないキャラで、カッコいいとは思われても、色気はあまり感じさせないでしょう。
金星を出す時に天王星も連動してしまうので、平凡な美人ではなく、変わった女性として振舞ったり、いつも意外な事をして人を驚かせるのが好き、といった風になります。
美しい外見とのギャップを、上手に生かしていたと言えるでしょう。
月も金星とは180度なので、土星、天王星が絡んだグランドクロスも作っていた事になりますが、月とヘッドが合していたため、ぎこちなさを逆に生かして、異色の歌手として人気を誇ったのでしょうね。

金星は対人関係、社会的な態度も表すので、周囲の人も調べてみると分かりやすいと思います。
今回、ミュージカル好きの知る人ぞ知ると言った女優さんでしたが、金星があまりにも分かりやすくイメージに合致していましたので記事にしました。







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レナ・ホーン ~人種差別と闘い続けたジャズ歌手~ [音楽]

レナ・ホーン(1917~2010)

ザッツ・エンタテインメントは、MGMのミュージカル映画の歴史を、往年のスターのコメントと各作品のハイライトによって送る豪華絢爛なアンソロジー作品です。
次々と名場面が繰り広げられる圧倒的なスケール感を持つ映画ですが、素晴らしい歌手やその歌の、貴重な映像を見る事が出来ます。
中でも上品な美しさで、私が一際惹かれるのがレナ・ホーンです。

レナはブルックリンに生まれ、16歳でハーレムのコットンクラブの舞台に上がった後、ジャズ楽団との共演等で顔が売れ始め、低予算の黒人映画に主演して銀幕デビュー。
そこへハリウッドの大手、MGMと契約し、最初の映画、「パナマ・へティ」‘42年に出演します。
以後、主な出演は、
「キャビン・イン・ザ・スカイ」
「ストーミー・ウェザー」
「姉妹と水兵」
「ジーグフェルド・フォーリーズ」
「雲流るるはてに」
「歌詞と音楽」など。

彼女は女優として長期契約を結んだ初の黒人女性でしたが、役どころと言えば劇中において歌や踊りを披露する芸人の役ばかり。
これはアメリカの人種差別が激しかった時代、黒人が白人と絡んで演じる事が許されていなかった事に由来します。
人種差別が特に激しい南部での上映時には、出演部分がカットされる事もありました。
ヘアメイク達は彼女の髪をいじることを拒んだり、スタジオの食堂へ行くと、白人ウェイターからサービスを断られたりもしたそうです。
また、両親とも白人黒人との混合ハーフ、中途半端な肌の色のため、顔を黒く塗られる事もあったとの事。
彼女はハリウッドが求めるニグロ像に、強い抵抗を感じていました。
人気を博した彼女の成功を妬み非難する黒人もおり、さらに自分のアイデンティティの曖昧さにも苦しめられたのです。

‘94年に公開された「ザッツ・エンタテインメント、パートⅢ」では、77歳になったレナ自身が進行役の一人として出演しています。

>色々な思い出があります
良い思い出、悪い思い出・・・
ハリウッドはいわゆるホームではありませんでした
映画会社が黒人の扱いを迷っている時代でした
歌だけ歌うと私はすぐに立ち去りました
MGMの私の最初の映画、「パナマ・ハティ」
コールポーターの名曲を歌いました
本当は演技にも挑戦したかったのです<

‘46年の「雲流るるはてに」の一場面で、レナは「ショウ・ボート」の混血女性、ジュリーを演じました。
ショウ・ボートは1951年本格的に映画化されましたが、白人と黒人のロマンスは当時の映画ではご法度。
ジュリー役はエキゾチックな白人女優、エヴァ・ガードナーへ変えられてしまいました。
しかし、役の交代劇は良くある事。
その時の心情も語っていました。

レナは政治意識も大変高く、のちの公民権運動や演説にも積極的に参加し、人種差別の壁を壊していこうと活動していきます。
大戦中の慰問でも、白人兵士がステージ前、有色人種が最も後方という配置になっている事に憤って公演を拒否した事もありました。
問題視されてブラックリストにも載りアメリカでの活動が困難になりましたが、活動をヨーロッパに移すなどで揺るぎない自分を貫き通しました。
人種差別の酷かった20世紀のアメリカで、黒人女性として国民的スターとなり、後続に大きく道を切り開いた偉大な先達の一人となったのです。

レナ自身、黒人として歌も演技も自然な姿のまま、作りものではないありのままの自分として認めて欲しかったと思います。
私は私、誰にも変える事ができない唯一無二の自分である事に、誇りを持ちたかったのです。
人種差別によって彼女が体験してきた様々な思いは、イミテーションではない、ありのままの自分を貫く強い決意として刻まれていった事でしょう。
そして磨かれ、彼女は本物のダイヤとなったのです。

MGMの、昔から変わらないスタジオで同じ場所に立ち、仕事をした時の思いを淡々と語る様子は、とても美しいと感じました。
すっきりとしていて、自信と威厳に満ち、同じように年を経て出演されていた他の女優さん達よりも、ずっと若々しいと感じた程です。
年を取れば誰でも皺も増えますが、そういった現象も自然のままに受容したしなやかな輝きがありました。
ハリウッドという、ある意味欲望の渦巻く危険な世界に身を置きながら、自分を見失わずに、最後まで現役であり続け、92歳の大往生を遂げたレナ・ホーン。
人生における最終勝利者と言えるでしょう。

彼女が30歳の時、デューク・エリントンはその美しさを満開のバラの花に喩えたと言います。
さらに、50歳になってもなお若々しい彼女を見て、エリントンは「バラのつぼみの様だ」とも。
同時に棘も秘めている、そんな強さもバラそのもの。
美しい歌声と同時に、見る者の目を瞠らせる美貌。
微笑みながら登場し、とても表情豊かに歌う姿は艶やかで、まさに大輪のバラの様です。



ザッツ・エンタテインメントのパートⅠ~Ⅲに登場する映画からの曲をピックアップしました。



様々な歌手達が、慰問と言う形でショーを見せる「万雷の歓呼」‘43年。
大戦中と言う背景の、戦闘シーンがない戦意高揚映画。
「ハニー・サックルローズ」は、恋人をスイカズラの花に例えたとても甘い曲。





ハリウッドでは、ブロードウェイの作曲家やジャズマンの伝記物が数多く作られましたが、この「歌詞と音楽」‘48年もリチャード・ロジャースとロレンツ・ハートの生涯を描いた作品。
気ままな女性を歌う「ザ・レディ・イズ・ア・トランプ」。





ジェローム・カーンの伝記物、「雲流るるはてに」‘46年。
混血女性ジュリーとして愛する人を歌った、「キャント・ヘルプ・ラビン・ザットマン」。



人は言う
彼は怠け者で
血のめぐりが悪いと
そんなことはどうでもいい
私も知っている
それが分かっていても
あの人を愛さずにいられないの

一日雨が降り続いても
あの人が戻ってくれば
その日の私は幸せ!
太陽が空いっぱい光り輝く気分

あの人の帰りが遅くても
私は文句を言わない
あの人のいない家は
私の家ではないのだから
どうにもならないの
あの人を愛さずにはいられない私



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悲しみのモロ O morro nao tem vez [音楽]

ボサノバの世界の中心的な存在である、アントニオ・カルロス・ジョビンの「悲しみのモロ」

O morro nao tem vez
訳すると >スラム街にチャンスは訪れない< だそうです。






今年は常識を超えた奇妙なニュースも多かったけれど、総じて激動の一年だったと思います。
社会が大きく変化する、混迷を極めた過渡期と言えるのでしょうね。
悲惨なニュースを聞いてしまうと、例え自分の身ではなくても今ある幸せを心から喜べない性質なので、来年は事件事故が減って、悲しむ人が少しでもいなくなる事を願わせて頂きます。
その位しかできないのですが・・・

皆様にとっても、来年は良い年である事をお祈りしています☆




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トミー・ドーシー ジミー・ドーシー スイング黄金時代 [音楽]

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10代の頃、ラジオから流れる気に入ったジャズをカセットテープに録音し楽しんでおりましたが、(昭和生まれなもので・・)ユーチューブで大好きな曲に何十年かぶりに出会えて感激しました!!
青春時代、親しんでいた音との再会、スイングジャズへのマイブームが再燃です^^

30年代から40年代はスイングジャズの最盛期、白人系のビッグバンドが星の数ほどあったと言います。
この時代、生演奏でダンスをするボールルームもアメリカ全土に広がり、数多くのバンドが個性を競い合いながら人々のハッピーな時間を盛り上げていました。
その中でも華麗な演奏によって輝いていたバンドの一つに、トミー・ドーシー楽団があります。
彼はトロンボーン奏者で、「センチメンタル・ジェントルマン・オブ・スイング」と呼ばれ、特に甘いバラードが絶品。
スイング黄金時代を飾る一人として、高い人気を誇りました。
まだ無名だったシナトラを見出したのはハリー・ジェームスですが、彼の楽団を脱退したシナトラはトミー・ドーシー楽団へ移籍します。
そして彼の演奏から多くを学び、歌のテクニックに磨きをかけ、一際成長して巣立っていきました。
他にも、シナトラの人気を一時凌駕したディック・ヘイムズも専属歌手でした。
ビッグバンドには、新人を熟練した歌手に育て、成功させるといった機能もあったようです。

トミーにはジミーという1つ違いの兄がいて、兄弟は炭鉱夫の父親の勧めで、音楽で身を立てていく事を決意します。
20年代には、前回記事にしたポール・ホワイトマン楽団で活躍していた事もありました。
1934年、二人はドーシー・ブラザーズ・オーケストラを結成します。
グレン・ミラーもこのバンドにいたそうで、さすがいろいろな所で繋がってます^^
そして翌年、兄弟は音楽性の違いを巡って大喧嘩。
仲違いをした二人は、それぞれのバンマスになり独立した活動を始めるようになりますが、その後のトミーの活躍は周知の通りです。

ルイ・アームストロング楽団のテーマ曲でもある「明るい表通りで」を、トミー・ドーシーが大ヒットさせます。
兄のジミーの楽団も成功しましたが、人気は弟には及ばなかった模様、でも「タンジェリン」とかの素敵な曲があって私は好きですね~。

この様に数々の名曲、名演奏を発表してきたのですが、40年代半ば、終戦を迎える頃にはスイング全盛期も終りを告げ、他の楽団と同じように彼らも解散宣言をしました。
最初の大喧嘩から約20年もの歳月を経て、1953年二人はようやく和解をし、亡くなる年の56年までTV出演などしていたそうです。

その後、トミーが自宅で多量の睡眠薬を飲み51歳で他界してしまいますが、半年後にあとを追う様に兄のジミーも癌で他界します。
それぞれのやり方を貫いて、ライバルとして競い合った二人でしたが、やはり晩年は強い絆を確認した事でしょう・・・。

日本では未公開でしたが、「ドーシー兄弟物語」(,47)という伝記映画のビデオもありますので、気になった方は調べてみて下さいね。
ちなみに本人達が出ている珍しい映画だそうです。
ストーリーと言うよりも、ゲスト出演している豪華絢爛たるプレーヤーの名演奏が見どころとなっているようです。


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ジミー・ドーシー楽団  「タンジェリン」





トミー・ドーシー楽団  「オー・ルック・アット・ミー・ナウ」





トミー・ドーシー楽団  「明るい表通りで」







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ポール・ホワイトマン メルティングポット [音楽]

娯楽的なレビュー映画として、当時先進的な異色を放った1930年の映画「キング・オブ・ジャズ」。
以前もご紹介したポール・ホワイトマン(1890~1967)ですが、アメリカ音楽とは何かという問いを、テーマとしていた様です。
ホワイトマンは、G・ガーシュウィンの伝記映画1945年の「アメリカ交響楽」に本人として出演していたので見られ方はご存じと思いますが、2メートルの身長に140キロの体格を持つ大変印象深い人物。
ガーシュウィンにとっても、クラッシックとジャズを融合させたアメリカ音楽の象徴でもある「ラプソディ・イン・ブルー」の創作を依頼するなど、切っても切り離せない人物です。

ホワイトマンは指揮者の息子として生まれ、ヴァイオリンとヴィオラの専門教育を受けたクラシック畑の演奏者でしたが、当時、人気が急上昇していたデキシーランドジャズに魅入られ、ダンスバンドのリーダーとして1920年大きく方向転換。
全盛期のアメリカでの人気は大変なものだった様で、「キング・オブ・ジャズ」と自称するようになります。

今見ると大変色あせしていますが、これまでの無声映画からトーキー映画が成功した1927年から3年ほどしか経っていない事を考えると、テクニカラーで特撮もあると言う画期的な映画だったようです。
ちなみに日本でも翌年公開されたとの事です。


主な演目

「花嫁のヴェール」Bridal Veil
「モントレーにて」It Happened in Montrey
「公園のベンチ」Bench in the Park
「憂鬱狂想曲」Rhapsody in Blues
「つづれのロミオ」Ragamuffin Romeo
「ハッピー・フィート」Happy Feet
「黎明の歌」Song of the Daw
「メルティング・ポット」Melting Pot
など・・・



花嫁のベール


女優さん達が神秘的で美し過ぎる!!


ハッピーフィート


チャーミングな二人組は、古過ぎてG姉妹としか情報を得られませんでした。


メルティングポット


多民族国家アメリカを象徴する言葉として有名な、人種のるつぼ。
それぞれの音楽文化が互いに作用し、どのような化学変化を起こすのか、それがアメリカ独特の音楽文化を形成していくものとホワイトマンは考えていたのかも知れません。



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ラヴェル 弦楽四重奏~第二楽章 [音楽]

蒸し暑い毎日ですが、耳に涼しい音楽は如何ですか?

弦を指で弾くピチカートが特徴的な、モーリス・ラヴェル 弦楽四重奏~第二楽章
澄んだヴァイオリンの音色が清々しい水の音のよう、森に浸み渡る清流の如く感じます。

弦楽四重奏は、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロで構成されます。
オーストリアのハーゲン弦楽四重奏団、四兄弟だけあって息の合うハーモニーです。





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IN THE MOOD [音楽]

IN THE MOOD(Treville出版)という、50年代から60年代にかけてのムード音楽のジャケットを集めた本があります。
ページをめくってみると、まさにゴージャスで幻想的な魅惑の数々
流れるタイトルの曲線
夜空に散りばめられた星々
筆記体のアルファベットって、何故こんなに美しいのでしょう。
ジャケットからも想像できる様に、ストリングスを中心としたゆったりした音楽です。
洗練された、癒しのイージーリスニング
往年の映画のバックに静かに流れていそうな、甘美な音楽です。

古き良き時代の産物、継がれるべき貴重な宝だと思います。

イギリスの盲目のピアニスト、ジョージ・シアリング(George Shearing)の幻想的な美ジャケの数々

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スイートミュージックのキング、ジャッキー・グリースン(Jackie Gleason)







フランク・シナトラの曲を多く手掛け、重厚な編曲で魅力的にしたネルソン・リドル(Nelson Riddle)




小粋なスイング系ジャズピアニストでもある、ジョー・ブシュキン(Joe Bushkin)




今はジャケットの中身を、容易に視聴できる時代になりました。
見て楽しむだけの本と思っていましたが、思いがけずCDカタログになった事、嬉しい限りです。



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Headbone Rollin‘in the Rearview [音楽]




映画「カーズ」の中で、マックィーンを輸送している走行中、トレーラーのマックは眠気に襲われ眠ってしまいます。
その時、悪者として登場するのが、改造されたスポーツコンパクトカー(暴走族?)
闇に輝く彼らがハイウエイに登場する時に流れる曲です。


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「去りゆく君」「残されし恋には」 [音楽]

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「去りゆく君」 ジャン・サブロン




ジャン・サブロンが創唱。
作詞は記事の中でも度々ご紹介していますシャルル・トレネー。
父親も兄弟もみな音楽界の経歴を持ち、本人も17歳の時に歌手活動を始めました。
ジャズの影響を受けたソフトな歌声は、フランスのビング・クロスビーとも呼ばれました。
1936年、「去りゆく君」が大ヒットするとディスク大賞を受賞、一躍有名になり、アメリカに渡りコール・ポーターやジョージ・ガーシュウィンとの共演もあったそうです。


思い出すと、息が詰りそうだ
涙の、花の、キスの思い出の数々
そう、四月の晴れた朝が目に浮かぶ

僕を見もせず行く君
今晩は、とも言わない君
今夜こそ、少しでもいい、希望をくれないか
僕はとっても苦しんでいるんだ
こっちを見てほしいのに
いったいなぜ
今夜は僕を見もせず行ってしまうのか
一言、こう言いたい、<愛している>と
ばかみたいだろう、いかれているだろう
若いんだ、悲しいんだ
だから、僕を見もせず行く君
今夜、少しでも希望を与えてほしいんだ
だから僕を見もせず行く君
希望をくれもせず行く君
おさらばだ、さようなら




「残されし恋には」 シャルル・トレネー




シャルル・トレネーと、彼の伴奏楽団のリーダーをしていた、レオ・ショーリアックの合作。
1942年、ナチス占領下のパリで作られました。
戦後アメリカで「アイ・ウィッシュ・ユー・ラヴ」というポピュラーソングとしてヒットし、「夜霧の恋人たち」の主題歌になり、ナット・キング・コール、フランク・シナトラ、ロッド・スチュアート、ナタリー・コールなども歌い、スタンダードジャズナンバーのように定着しました。


今夜、私のドアを叩いた風は
私に、過ぎた昔の恋を語りかけた
消えようとする火の前で・・・
今夜、それは秋の歌
冷えびえとする家の中で
私は遠い日々を想う・・・

私達の愛に何が残っているだろう
あの美しい日々の何が残っているだろう
一枚の写真、私の若かりし日の古い写真
愛の言葉をしるした紙切れ
四月の、逢いびき
いつも私につきまとう想い出
色あせた幸福
風になびかせた髪
飛び去った接吻
たゆとう夢
そんなものの、何が残っているだろう
私に教えてくれないか?
小さな村
古い鐘楼
風景
ひっそりと埋もれ
そして雲の中に
大切なおもかげ
私の過去の大切なおもかげ

言葉、ささやかれた優しい言葉
あんなにも純粋だった愛撫
森の奥での誓い
木にはさまれていた花
まだその香りが心を酔わすけれど
もう過ぎた昔のこと、どうしてだろう?



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