貴重な月回帰のタイミングで何を感じたか、やはり「月」とそのハウスへの思いを新たにしました。
ハードアスペクトを持った「月」を取り戻すためなのか、昔から好感を持つ人は、明るく伸びやかな心を持った人。
私は地方への憧れもあって、進学のチャンスを活かし、1度連れて行ってもらった事があるだけの東北のとある県に住む機会を得られました。
埼玉から国内留学(笑)して来た子として、最初、浮いていたと思いますが、東北人の屈託のなさを心地良く感じながら、振る舞いもその色に染まって行きました。
明るく面倒見の良い友人達の、大らかな物の考え方や方言が自然と移り、いつしか半東北人と化していました・笑
そして、心も大きく広がった思いがしました。

厳しかったピアノの授業、合唱部での練習、毎日皆で「おしん」を見ながらのお弁当、日曜はバスに乗って町までお買い物、またはアルバイト(結婚式場、団子屋、流しそうめん屋、ラーメン屋など)、施設にボランティア、お菓子を持ち寄った賑やかなお茶会、飲み会、大量のサクランボを差し入れてくれる寮のおばちゃん、祝ってもらった誕生会、友人達の実家に行く度、埼玉から来た事を驚かれた事、初めてのスキー旅行、つぶれると言うデマが流れ夜行列車で敢行したTDL旅行、伝統の枕投げ、大きなムカデが出た寮の部屋、ケンカしたけど仲直りした寮の友人、友達の影響を受けて聴いていたユーミンとさだまさし、さらさらした雪と、夏は美しい山々の風景、中に入ると意外と暖いかまくら、頑張ったハードな保育実習、免許を取り乗り回した原付、ひそかに観に行ったミニシアターのミュージカル、最高に美味しい水と空気と食べ物、河原での芋煮会などなど・・・

たった2年間なのに疲れ知らずで物凄く濃厚な時を過ごしました。
きっと希望で胸を膨らませていたからなのでしょう。
東京に帰っても、泊りに来てもらったり、東北の良さを伝えるべく主人を連れて行ったり、お互いの結婚式に出席したりしていましたが、やはり結婚をすると会う機会も自然と減ってしまうものです。
しかし、写真や年賀状を見れば楽しかった時代が思い出されます。

卒業後は児童養護施設に勤務しました。
小中学生限定の施設でしたが、親が病気だとか、離婚して生活を立て直すための経済的な理由だとか、入所の理由は様々ですが、今、増えている虐待が理由で来た子はなかったと記憶しています。
親などが面会に来ると嬉しそうにする子供がほとんどで、早く一緒に暮らしたい、土曜日だけのお泊りが出来る子はそれを楽しみにしていました。
子供同士の人間関係は、やはり中学生が小学生を手先に使ったり、下の子は上の子に気を使い遠慮したりなど問題もありましたが、兄弟で来ている子がほとんどで(4人姉弟も)、ピンチの時はお互いかばい合ったり団結したり、兄弟じゃなくても年下の子の面倒を見てくれる中学生もいて、全体的に皆、仲間意識が強かったと思います。
しかし家庭じゃないので決まり事も多いし、ルールを守らなければ叱られるので、本来の居場所じゃない寂しさや不安から甘えが強くなる子もおり、安心して過ごして欲しい思いで役不足ながら母親の様にお世話する事を心掛けました。
担当だった子も今や懐かしい、40代半ばになっています。みんな幸せに暮らしているのかな。

ここでも新潟や福島など東北からこられた先生方ばかりの中、一緒に働くご縁を頂きました。
子供達は活発でそれぞれの個性が豊か、大変である中、ぼーっとした自分が、体力気力息切れしつつ子供達と向き合って行けたのは、どっしり構え、明るさとゆとりを失わない先輩方と、しっかり者の同僚がいたからこそです。
それだけではなく、先生同士のリクリエーションも活発で・笑
職員全体で夜開かれる各先生方の誕生会、笑い声が響いて、時々子供が起きてしまったり。
麻雀に詳しい同僚のレクチャーを受け、夜な夜な部屋で興じていたり。
子供達が帰省する頃を狙って出かけた職員旅行も良い思い出です。

他にも商売をしていた叔父の家は人の出入りが多く賑やかで、家族同然にしてもらった事、従妹達とは兄弟の様だった事、自分の心が欲していたものを無意識に補ってきたのかも知れません。

故郷は元々あるものではなく、心の中で作るもの。
その時その場所で、居場所を共にした人達、懐かし風景、思い出されると心がじんわりして来るような思い出。。
もちろん恥ずかしい失敗も数多くありますが失敗しなければ人間は成長しないですから。
生まれた実家以外にも故郷と思える場所が存在する事、自分にとって、安らぎと心を広げるための不可欠な経験だったのだろうなと思います。



写真て不思議です。
年数経過でセピア色に染まって行くのに反比例して、友人達の表情は生き生き輝いて見えます。
若さがまぶしいと感じてしまうお年頃ですね^^